カ行の画家たち



カ行の画家たちの紹介をします。



カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ『雲海の上の旅人』1818年ハンブルク美術館。
画家名:カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ。
時代区分:ロマン主義。
生没年:1774年?1840年。
代表作:雲海の上の旅人、北極海の難破船、樫の森の修道院、ほか。
作品集:カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの代表作・有名絵画。


ドイツ・ロマン主義の風景画家 カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ 画家プロフィール

カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)は、ドイツの ロマン主義 を代表する画家です。
カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの絵画は、氷や霧に覆われた厳しい自然、
幻想的で荘厳な自然といった宗教性・精神性を感じる風景画が特徴で、時に大自然に向かい立つ小さな人間が描かれます。
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カミーユ・ピサロ

カミーユ・ピサロ『マチュランの庭、ポントワーズ』1876年ネルソン・アトキンス美術館。
画家名:カミーユ・ピサロ。
時代区分:印象派。
生没年:1830年?1903年。
代表作:マチュランの庭ポントワーズ、モンフーコーの収穫、白い霜、ほか。
作品集:カミーユ・ピサロの代表作・有名絵画。


印象派展の常連だった画家 カミーユ・ピサロ画家プロフィール

カミーユ・ピサロ(1830-1903)は、印象派を代表するフランスの画家です。
印象派の中心人物だったピサロは8回行われた印象派展すべてに出展し、生涯1300点にも及ぶ風景画や人物画を残しました。
年長者で印象派のまとめ役的な立場に居たピサロは、クロード・モネ、ルノワール、
エドゥアール・マネ、アルフレッド・シスレーといった画家たちと親交があったほか、
のちに後期印象派で活躍するファン・ゴッホやゴーギャン、セザンヌとも知り合いでした。
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カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)

カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)『聖マタイの召し出し』1599-1602年サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会コンタレッリ礼拝堂。
画家名:カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)。
時代区分:バロック生没年:1571年?1610年。
代表作:聖マタイの召し出し、聖マタイの殉教、キリストの埋葬、ほか。
作品集:カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)の生涯と特徴・代表作・作品解説。


カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)とは? 画家プロフィール

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョ(Michelangelo Merisi da Caravaggio)はバロックを代表する画家。
劇的な明暗表現のなかに聖なるものと俗するものを融合させたカラヴァッジョ独自の宗教画は、
これまでにないドラマティックな絵画として人気を博し、
カラヴァジェスキ(カラヴァジェスティ)と呼ばれる多くの模倣者を生み出したほか、全ヨーロッパの芸術家に影響を及ぼしました。
カラヴァッジョの代表作に『ホロフェルネスの首を斬るユディト』『聖マタイの召令』『キリストの埋葬』
『エマオの晩餐』『洗礼者聖ヨハネの斬首』などがあります。

カラヴァッジョ(カラヴァッジオ)の生涯

1571年、ミラノの田舎カラヴァッジョ村に生まれ、ミケランジェロと命名されたカラヴァッジョ。
ロンバルディア地方で大流行したペストにより父、祖父、叔父を亡くし、13歳でフレスコ画家に弟子入りしました。
ケンカが原因でミラノを出ることになったカラヴァッジョは、22歳でローマのダルピーノ工房へ。
24歳のときに『バッカス』でローマ・カトリック教会の枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに才能を認められ、
その後『聖マタイの召命』『聖マタイの殉教』で一躍スター画家への道を駆け上ります。
カラヴァッジオを一躍スターにした『聖マタイの召命』『聖マタイの殉教』
しかし、短気でケンカっ早い性格が災いし、カラヴァッジョは画家として有名になってからもトラブルを起こし続けました。
ローマの警察記録には10回以上もカラヴァッジョの名が残されており、とうとう35歳のときには、
テニス賭博がきっかけで友人を刺殺してしまいます。
世紀の画家カラヴァッジョは殺人犯へと転落を遂げてしまったのです。
懸賞金を掛けられたカラヴァッジョはローマにいられなくなり、ヨーロッパ各地を転々とする生活を送ることになりました。
逃亡先でも作品を描き続けたカラヴァッジオ
旅先でも作品の制作を続けていたカラヴァッジョは、逃亡先のマルタ島でマルタの騎士団長に絵を贈ってナイトの称号を受けたものの、
再びケンカを起こしてナイトは剥奪に…投獄されたカラヴァッジョは何と脱獄を図り、今度はシチリアへ。
新たな地シチリアでも画家としての名声を得ますが、やはりここでもトラブルを起こしたという記録が残っています。
絵の才能を認められ、人生の再起が叶いそうになると、またトラブル…そんな生活を繰り返していたカラヴァッジョは、
ローマに戻ることを願い、恩赦を受けることを望んでいました。
しかし、皮肉にも恩赦を受けるための旅の途中でカラヴァッジョは病に倒れ、ローマに戻ることが叶わぬまま、
1610年に38歳という若さでこの世を去りました。
粗暴な性格ゆえ破天荒な人生を歩み、弟子も取らないままヨーロッパ各地を転々としたカラヴァッジョは、
死後の評価も決して芳しいものではなく、カラヴァッジョの作品が再び見直され高評価が確立したのは、
カラヴァッジョの死後数十年が経過してからのことでした。
1980年代にカラヴァッジョはイタリアのリラ紙幣に肖像画と作品(女占い師)が採用されています。
殺人という大罪を犯し逃亡した画家が、紙幣のデザインに採用されるのは異例のこと。
それだけカラヴァッジョがイタリアの代表的な画家として認められているということの証でしょう。

カラヴァッジョの作品の特徴・鑑賞ポイント

キアロスクーロやテネブリズムによる明暗表現 ・テネブリズムが劇的な効果を生んだ聖マタイの召令
カラヴァジョを語る上で外せないのが、ダイナミックでドラマティックな明暗表現。
フェルメールが光の魔術師であるならば、カラヴァッジョは光と闇の魔術師です。
カラヴァッジョを一躍スター画家にした『聖マタイの召命』では、窓から一筋の光が差し込み、室内にいる人間たちを照らします。
注目させたい部分以外を極端なほど暗く影にすることで、人物やキリストの指先が画面に浮かび上がって見えます。
レオナルド・ダ・ヴィンチが発見したといわれる技法キアロスクーロは、対象物に明暗(影)をつけて立体的に見せる、
明暗で画面を構成するために使う技法のこと。
そして、キアロスクーロより強烈なコントラストで明暗を表現するのがテネブリズム(劇的照明)です。
カラヴァッジョは、このキアロスクーロやテネブリズムを作品に取り入れることで、
劇的にドラマティックな画面を構成してみせた最初の画家と言って良いでしょう。
リアリティあるカラヴァッジョの宗教画
批判も受けたカラヴァッジオの宗教画
カラヴァッジョは、マリアを身分の低い身なりや生々しい死体として描くなど、
それまでの宗教画では有り得なかった表現にも挑戦していきます。
日常的であったり、過激すぎたりするカラヴァッジョの宗教画は、
教会から「神聖な宗教画を冒涜している」「敬意が足りない」と批判され、購入を拒否されることもありました。
一方でカラヴァッジョの作品は教会の上層部からは高く評価されていたようです。
この時代の庶民の識字率は高くなかったため、教会にとって布教のための宗教画は必要不可欠なものでした。
日常的な舞台に親しみを持つと同時に、絵画のなかの人物に感情移入し、
自分の姿と置きかえて見ることができるカラヴァッジョの宗教画は布教ツールとしてうってつけだったのでしょう。
全ヨーロッパへ波及したカラヴァッジョの影響力 ・ルーベンスやレンブラントにも影響を与えたカラヴァッジオ
カラヴァッジョの革新的な表現が芸術家たちに与えたインパクトは、イタリアから北ヨーロッパ、そして全ヨーロッパへと波及していきます。
カラヴァッジョの影響力は、カラヴァッジョの作風を模倣したり、
カラヴァッジョ色の濃い作品を制作するカラヴァッジェスキ(カラヴァジェスティ)と呼ばれるカラヴァッジョ主義者を生み出すほどでした。
代表的なカラヴァッジェスキにアルテミジア・ジェンティレスキがおり、
彼女は女性として初めてアカデミーに加わるなど、その実力は高く評価されています。
カラヴァッジョの作風は一時のブームで終わることなくルーベンス、ベラスケス、レンブラントといった後世の巨匠たちにも影響を与えました。
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ギュスターヴ・カイユボット

ギュスターヴ・カイユボット『パリの通り、雨』1877年シカゴ美術館。
画家名:ギュスターヴ・カイユボット。
時代区分:印象派。
生没年:1848年?1894年。
代表作:パリの通り、雨、床削り、ヨーロッパ橋、ほか。
作品集:ギュスターヴ・カイユボットの代表作・有名絵画。


印象派を代表する画家ギュスターヴ・カイユボット

ギュスターヴ・カイユボット(1848-1894)は、 印象派 を代表するフランスの画家です。
繊維業を営む上流家庭に生まれたカイユボットは、『パリの通り、雨』や『床削り』など、
フランスのリアルな労働環境やブルジョワ生活を描き出した風俗画・風景画を多く描きました。
カイユボットは絵画の蒐集家としても知られ、
友人であったピエール=オーギュスト・ルノワール、クロード・モネ、シスレーら印象派の画家たちの絵画を購入し彼らを援助しました。
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ギュスターヴ・クールベ

ギュスターヴ・クールベ。
画家名:ギュスターヴ・クールベ。
時代区分:写実主義。
生没年:1819年?1877年。
代表作:画家のアトリエ、オルナンの埋葬、石割り人夫、ほか。
作品集:ギュスターヴ・クールベの生涯と作品の特徴・代表作・有名絵画。


ギュスターヴ・クールベ 画家プロフィール

ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、 写実主義 を代表するフランスの画家です。
1839年末にパリに出てきたクールベは、当初予定していた法律家への道を取りやめ画家を目指すようになり、
アカデミー・シュイスに通い、ルーヴル美術館で模写に励みました。
当初はネオバロック的なロマン派の画家として画家人生をスタートさせたクールベは、反体制的な政治的な思想もあり、
古典主義的なボザールの理念に反発、写実主義へと傾倒していきます。

徹底的に見たままに再現する 写実主義

醜い脂肪やしわ、足裏の汚れまで見たままに描く写実主義絵画
躍動感溢れるドラマティックな絵画が多かった ロマン主義 から一転、
写実主義は日常生活のなかから選んだテーマを美化せず現実的に描き出しました。
クールベが生きた当時、ヨーロッパ全土には革命の嵐が吹き荒れており、その影響を受けたクールベは現代の画家らしく、
自分の経験による、見たままの生きた芸術をつくることに注力するようになります。
「私は天使を描くことはできない。
私は天使なるものを見たことがないからだ」というクールベの名言は、
リアリズムの作風に傾倒していたクールベの人物像をよく表しています。

画家として初めて個展を開催したクールベ

万国博覧会への出品を拒否された『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』
アカデミーの常識を次々と打ち破ったクールベは、
自身の大作『画家のアトリエ』と『オルナンの埋葬』がパリ万博博覧会への出品を拒否されると、
博覧会会場の向かいの土地にバラック小屋を急造し、 画家として初めての個展を開催 します。
初個展のパンフレット序文には反アカデミスムを掲げた「レアリスム宣言」が記されました。

印象派絵画への道を開いたクールベ

アカデミックな芸術以外は受け入れられることが難しく、
慣例から外れた作品を制作し非難されることは芸術家人生にも関わる一大事だった時代。
ありのままを等身大で描くクールベの作品は保守的な批評家やサロンから大不評を買いました。
共和主義思想を支持していたクールベは、貴族やブルジョワが支持するサロンへの対抗心もあり、
自身の作品への不評・批判に徹底的に反発すると、
芸術家の自由な表現を後押しし、パトロンとの結びつき以外の絵画制作を促進していきます。
それまでの様々な常識を打ち破ったクールベの姿勢と作品は、
後の芸術家たちの道を大きく開き、クールベは高く評価される画家となりました。
晩年はスイスへ亡命したクールベ 普仏戦争後に勢力を拡大したパリ・コミューンでコミューン美術委員会議長を務めたクールベは、
1871年にパリ・コミューンの騒乱に巻き込まれる形で逮捕されると、莫大な費用の支払いを命じられ、作品も没収されてしまいます。
失意のうちにスイスに亡命したクールベは、58歳のときに亡命先で亡くなりました。

ギュスターヴ・クールベの作品の特徴

人々の厳しい現実もありのままに描いたクールベ
フランスの田舎で生まれ育ったギュスターヴ・クールベは、絵具を厚塗りする力強い技法で、
厳しい現実を生きる地に足を着けた人々の暮らしや、海や森といった自然、自然に暮らす動物などを作品の主題としました。
たとえば農村で生きる人々を主題とした作品でも、クールベの作品からはバルビゾン派の作品のような哀愁や感傷は感じられません。
そういった感情を誘うような構図も用いません。
ただあるがままの姿を徹底した写実主義で描いているのが特徴です。
イケメン風?クールベの自画像は自信の表れ
自画像も多く残したギュスターヴ・クールベ
クールベは自画像も多く制作しました。
恋人と共にいる自画像や負傷した人物に自らを投影した自画像など、
シーンは違えどどの自画像もナルシスティックなイケメン風の雰囲気を醸し出しているのが特徴です。
初期に制作された作品が多いこともあってか、ロマン主義的な傾向、クールベの自信家な一面が垣間見えます。
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ギュスターヴ・モロー

ギュスターヴ・モロー『オイディプスとスフィンクス』1864年メトロポリタン美術館。
画家名:ギュスターヴ・モロー。
時代区分:象徴主義。
生没年:1826年?1898年。
代表作:オイディプスとスフィンクス、出現、オルフェウス、ほか。
作品集:ギュスターヴ・モローの代表作・有名絵画。


象徴主義を代表する画家 ギュスターヴ・モロー

ギュスターヴ・モロー(1826-1898)は、 象徴主義(世紀末芸術) を代表するフランスの画家です。
神話や宗教といった伝統的な主題を独創的・幻想的な表現で描いたモローは、
象徴主義の先駆者として後のシュルレアリスムにも多大な影響を与えました。
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グスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト『アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I』1907年ノイエ・ガレリエ。
画家名:グスタフ・クリムト。
時代区分:ウィーン分離派。
生没年:1862年?1918年。
代表作:アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像I、ユディトI、接吻、ほか。
作品集:グスタフ・クリムトの代表作・有名絵画。


ウィーン分離派を代表する有名画家 グスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト(1862-1918)は、ウィーン分離派(世紀末芸術)を代表するオーストリアの画家です。
ウィーン・セセッション初代会長でもあったクリムトは、金箔や彫金を用いた煌びやかで華やかな人物画、
幾何学模様を取り込んだ人物画や風景画を多く描きました。
写実的で艶めかしい女性の表情と装飾的な衣装や背景の組み合わせが生み出すインパクトはクリムトの真骨頂といえるでしょう。
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グラント・ウッド

グラント・ウッド『アメリカン・ゴシック』1930年シカゴ美術館。
画家名:グラント・ウッド。
時代区分:アメリカの画家。
生没年:1891年?1942年。
代表作:アメリカン・ゴシック、アメリカ革命の娘たち、ほか。
作品集:グラント・ウッドの生涯と作品の特徴・代表作・有名絵画。


グラント・ウッド 画家プロフィール

グラント・ウッド(1891-1942)は、アメリカの画家です。
アメリカのアイオワ州に生まれ、シーダーラピッズで育ったグラント・ウッドは、工芸学校や美術学校で芸術を学びました(未卒業)。
戦後シーダーラピッズに戻り中学校の美術教師として教壇に立ったグラント・ウッドは、後にパリの美術学校へ。
ヤン・ファン・エイクなどネーデルラント絵画からの多大な影響を受け、独自の写実主義的な様式を確立すると、
『アメリカン・ゴシック』の成功により、アメリカを代表する有名画家に躍り出ました。

グラント・ウッドの作品の特徴

グラント・ウッドの作品は、アメリカの古き良き世界観、アメリカ人の美徳を反映しているのが特徴。
代表作『アメリカン・ゴシック』のように細部まで緻密に描く肖像画のほか、道徳的な寓意画、おもちゃのようにデフォルメした風景画、
空想的な風景画なども描いています。
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クロード・モネ

クロード・モネ『睡蓮』1916年国立西洋美術館。
画家名:クロード・モネ。
時代区分:印象派。
生没年:1840年?1926年。
代表作:睡蓮、ポプラ並木、積みわら、日傘をさす女、ほか。
作品集:クロード・モネの代表作・有名絵画。


印象派を代表する画家クロード・モネ

クロード・モネ(1840-1920)は、印象派を代表するフランスの画家です。
外光派とも呼ばれる印象派の画家たちは、光の変化により物の見え方が変わることに着目した作品を制作、
クロード・モネは風景が時間とともに変化する様を色と影で表現した連作を数多く残しています。
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