パウル・クレー
パウル・クレー『セネシオ』1922年バーゼル美術館。
画家名:パウル・クレー。
時代区分:象徴主義、抽象芸術、バウハウス。
生没年:1879年?1940年。
代表作:セネシオ、女の館、ニーゼン山、ドゥルカマラ島、ほか。
作品集:パウル・クレーの代表作・有名絵画。
子供心と理論が共存するモダンアートの先駆け パウル・クレー
パウル・クレー(1879-1940)は、スイス出身の画家です。
バウハウスで教鞭もとったクレーは、素描、水彩、エッチング、ミクストメディアによる作品を中心に制作しました。
クレーの作品には子供心を感じさせるかわいらしいものも多く見られますが、
実際は理論的に絵画を構成するタイプの画家であり、自身のそれぞれの作品に細かな注釈を付けています。
作品の傾向として、初期は繊細で控えめなタッチの作品、
1914年のチュニジア旅行以降は鮮やかな色彩や抽象表現の作品へと画風に明確な変化が見られるのが特徴です。
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ピーテル・パウル・ルーベンス
ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト昇架』1610-1611年アントワープ大聖堂(聖母マリア大聖堂)。
画家名:ピーテル・パウル・ルーベンス。
時代区分:バロック。
生没年:1577年?1640年。
代表作:キリスト昇架、聖母被昇天、マリー・ド・メディシスの生涯、ほか。
作品集:ピーテル・パウル・ルーベンスの生涯と作品の特徴・代表作・有名絵画。
ピーテル・パウル・ルーベンスとは?
ピーテル・パウル・ルーベンスは、無類の多作と言われるほど多くの作品を残したバロック美を代表する画家。
外交官として政治にも関わり複数の国で活躍しました。
日本でルーベンスと言えば、アニメ「フランダースの犬」とセットで語られることも多いでしょう。
フランダースの犬の最終回で、主人公ネロが天に召される前に観たアントワープ大聖堂の祭壇画、
『キリスト昇架』『キリスト降架』の作者がルーベンスです。
ルーベンスの生涯
ルーベンスは、父が宗教紛争から逃れるために滞在していたドイツの町ジーゲンで誕生。
10歳で父を亡くし、母の実家があるアントワープに戻ると、13歳で伯爵未亡人のもとに奉公に出され、
その後アントワープの画家のアトリエで修行、18才で人気画家ファン・フェーンに弟子入りしました。
21歳でアントワープの画家組合に親方として登録したルーベンスは、22歳から31歳までをイタリアで過ごします。
ヴェネツィアでヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの作品に触れ、ローマで
ミケランジェロやラファエロのほか、カラヴァッジオ(カラヴァッジョ)やアンニバーレ・カラッチの作品を研究するなど、
イタリア各地で様々な芸術家の作品に触れたルーベンス。
ルーベンスが自身の画風を確立していったのは、このイタリア滞在の影響が大きかったと言われています。
母の危篤をきっかけに故郷へ戻り、ネーデルラント総督アルブレヒト大公夫妻の宮廷画家となったルーベンスは、
アントウェルペンに自身の工房を構えます。
工房には後に有名画家となるヴァン・ダイクなど優秀な弟子を抱えました。
そして同時期にイザベラ・ブラントと結婚。
充実した仕事、幸せな家庭、ルーベンスはその両方を手に入れます。
ピーテル・パウル・ルーベンス『キリスト昇架』1610-1611年聖母マリア大聖堂(ベルギー・アントウェルペン)1
30代半ばでアントワープ大聖堂の祭壇画(フランダースの犬に登場する作品)を制作、
40代でフランス皇太后からリュクサンブール宮の装飾を頼まれるなど仕事も私生活も何もかもが順風満帆に思えた頃、
愛娘のクララが亡くなり、その3年後には愛妻イザベラも亡くなるという不幸がルーベンスを襲いました。
絶望的な気分に陥った時期もあったものの、ルーベンスは画家として外交官として仕事に邁進し、
イギリスとスペインの平和交渉に貢献するなど交渉術の手腕を発揮。
政治的な活躍により、ルーベンスはスペイン国王からも英国王からもナイトの爵位を受けています。
スペイン滞在時にはスペイン国王の宮廷画家ベラスケスとも親交がありました。
53歳になったルーベンスは、亡くなった妻イザベラの姪・エレーヌと再婚。
当時のエレーヌは16歳、ルーベンスとは親子以上に年の離れた結婚でしたが、
ルーベンスにとって2度目のこの結婚も幸せなものだったと言われています。
画家・外交官としての名声、爵位、2回の結婚と8人の子供、
莫大な財産と、あらゆるものを手に入れたルーベンスは55歳で政治の世界から引退、62歳で亡くなりました。
ルーベンスの特徴・作品鑑賞ポイント
美術史史上最も成功した画家ルーベンス・ルーベンスが描いた家族の肖像画
「王の画家にして画家の王」という異名を取ったルーベンス。
教養が高く博識で、オランダ語、イタリア語、フランス語、ラテン語などが堪能だったルーベンスは、イタリアやフランスのほか、
スペイン、イギリス、オーストリアなどの国を飛び回り外交官としても活躍しました。
宮廷画家として、外交官として、世界各地で名声を得たルーベンスは、
経済的にも大変裕福で、美術史上最も成功した画家と言われるほどの成功を収めています。
ルーベンスは話術・交渉術に長けており、外交官として外国に出かけた際にも画家としてのPRを忘れず、
国外の王族や貴族からの肖像画の依頼などを請け負いました。
画家と言えば「依頼主からの注文を受けて制作に取りかかる」のが一般的だった時代に、
ルーベンスは自分の工房に「売り絵」の在庫を抱え、欲しいという人がいればすぐに作品を売れるようにしていたほか、
版画を使って自分の作品を広く宣伝するなど、経営者としての手腕も発揮していたようです。
家庭人としても良き夫・良き父だったルーベンスの結婚生活は円満で幸せなものだったと言われており、
その片鱗はルーベンスが残した妻や子供の肖像画からも見ることができます。
ルーベンスのドラマティックな演出力・マリー・ド・メディシスの生涯
ありのまま、存在するままを肖像画にするベラスケスのような画家もいれば、ごくごく平凡な人物をドラマティックに、
まるで神話の登場人物のように仕立てた肖像画を制作するルーベンスのような画家もいます。
歴史画や神話画も制作していたルーベンスは肖像画にもドラマ性を持たせることがありました。
その代表的な作品が『マリー・ド・メディシスの生涯』です。
フランス王アンリ4世妃のマリー・ド・メディシスから、妃の生涯を主題にした作品を依頼されたルーベンス。
ルーベンスが絵画制作の依頼を受けたときにはすでに作品を飾る場所もサイズも決まっており、しかもその依頼は24点もの連作でした。
しかし肝心の連作の主役となるマリー・ド・メディシスは、
連作に描けるほどの政治的な栄華も実績もなく、どこを褒めればいいのか分からない女性。
24点もの連作をどう描けばいいものか…。
政治に不穏な空気が漂っていたフランスで、作品に政治的な批判を持ち込みたくなかったルーベンスは悩みます。
そしてルーベンスが捻り出した最良の案は、連作の後半部分のマリー・ド・メディシスを神話の主役に仕立て上げることでした。
ルーベンスの手によって、連作『マリー・ド・メディシスの生涯』はダイナミックでロマンティックな物語となり、
マリー・ド・メディシスは壮麗なヒロインに化けたのです。
肖像画でありながら、詩的で神話性を持ち寓意も込められたマリー・ド・メディシスの生涯は、
ルーベンスの肖像画のあり方をよく表しています。
古典彫刻が手本・ルーベンスが描く男たち
古典彫刻のような筋肉の男性・ルーベンスの描く男性は筋肉隆々の逞しい体つき、そしてその動きは大げさに思えるほどダイナミック。
これはルーベンスが理想の肉体として古典彫刻を手本にしているからだと考えられます。
古典彫刻の肉体美そのものとも言えるルーベンスの男性像はずっしりとした重量を感じさせ、
筋肉に力を込め身体をねじらせたポーズからは古代彫刻ラオコーンのような壮大さを感じます。
メタボ体型が基本・ルーベンスが描く女たち
フェルメールが描く体格の良い女性
ルーベンスの描く女性はムチムチと脂肪が乗っているのが特徴で、西洋絵画でよく見かける「ふくよか」を超えた、
有り体に言えば「肥満女性」もしばしば描かれました。
ルーベンスが理想とする女性美は、現代の私たちの美の基準からはちょっと外れたところに存在しています。
ふくよかな女性を好んで描く画家は多いですが、ルーベンスの場合は極端な印象です。
多作ゆえの批判も受けたルーベンス
ルーベンスが生涯描いた絵画は1,500点とも言われ、その作品ジャンルは歴史画、神話画、宗教画、肖像画、風景画と幅広いものでした。
構想をまとめる速さと筆の確実さが評判だったルーベンスとはいえ、
これだけの作品数ともなると画家1人の技量だけでこなすのは不可能であ、
経営者としての才能もあったルーベンスが自身の工房で優秀な弟子たちを育てたからこそ、
成し得たものだということは想像に難くありません。
ルーベンスの工房からは後に有名画家となるヴァン・ダイクも出ています。
多ジャンルの作品を多作したルーベンスは、
ボードレールに「通俗の泉」と揶揄されるなど、時には批判的に論評される(一流画家として評価されない)こともありましたが、
ルーベンスと同時代を生きた劇作家のシェイクスピアも同様の批判を浴びていることから、
批判の原因には「1ジャンルを突き詰めてこそ本物」という世間一般的な意識があったと考えられます。
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ピーテル・ブリューゲル(父)
ピーテル・ブリューゲル(父)『バベルの塔』1563年ウィーン美術史美術館。
画家名:ピーテル・ブリューゲル(父)。
時代区分:北方ルネサンス。
生没年:1568年?1625年。
代表作:バベルの塔、雪中の狩人、ネーデルラントのことわざ、ほか。
作品集:ピーテル・ブリューゲルの生涯と作品解説。
ピーテル・ブリューゲル(父)とは?
ピーテル・ブリューゲル(Pieter Bruegel)は、ネーデルラントの世俗を反映した絵画や寓意画、
宗教画などで知られる北方ルネサンスの画家です。
ピーテル・ブリューゲルの代表作に『バベルの塔』『雪中の狩人』『ネーデルラントのことわざ』などがあります。
長男が同名のピーテルであることから、それぞれの作品を区別するため、本ページでご紹介している父親ピーテル・ブリューゲルは、
「ブリューゲル(父)」、長男ピーテルは「地獄のブリューゲル」、次男ヤンは「花のブリューゲル」とも表されます。
ピーテル・ブリューゲルの生涯・経歴
アントワープの画家ピーテル・クック・ファン・アールストに弟子入りしたピーテル・ブリューゲルは、親方の死後、
アントワープの画家組合に親方として登録し活動を開始します。
30歳を過ぎたピーテル・ブリューゲルは版元であるヒエロニムス・コックの依頼で版画の下絵となる素描を制作、
34歳頃から油絵に取り組むようになりました。
北方ルネサンスで独特の世界観を築きあげたヒエロニムス・ボスの死後、
ピーテル・ブリューゲルはボスの世界観を引き継ぎながら、庶民の生活や労働を主題にした世俗的な作品を多く手がけ、
「農民の画家」と呼ばれました。
宗教を主題としたバベルの塔などの作品や寓意を込めた作品も手がけており、その作風は裕福で教養の高い人々にも愛されました。
ブリューゲル一族は家族で工房を営み、ピーテル・ブリューゲルの息子たちも有名な画家になっています。
ピーテル・ブリューゲルが活躍した北方ルネサンスとは
北方ルネサンスローマから見て北側、アルプスより以北のイタリア以外のヨーロッパで始まった美術が北方ルネサンス。
油絵具を使い始めた北方ルネサンスの芸術家たちの作品は緻密な表現力が特徴です。
ネーデルラント、ドイツ、フランスなどヨーロッパの国々とルネサンス運動が盛んだったイタリアとの交流が進み、
イタリアに芸術家たちが自国にイタリアルネサンス美術のエッセンスを持ち帰ったことも、北方ルネサンスに多大な影響を与えました。
ピーテル・ブリューゲルやその息子たちはネーデルラントとブリュッセルで活躍した北方ルネサンス・フランドル絵画の代表的な画家です。
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ピエール=オーギュスト・ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』1876年オルセー美術館。
画家名:ピエール=オーギュスト・ルノワール。
時代区分:印象派。
生没年:1841年?1919年。
代表作:ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会、舟遊びをする人々の昼食、ほか。
作品集:ピエール=オーギュスト・ルノワールの代表作・有名絵画。
印象派を代表する画家 ピエール=オーギュスト・ルノワール
ピエール=オーギュスト・ルノワール( 1841-1919)は、
クロード・モネやエドガー・ドガらと並ぶ印象派を代表するフランスの画家です。
軽くやわらかなタッチの肖像画や風景画のイメージが強いルノワールですが、実際には古典的なタッチやテーマに傾倒したり、
ロココの影響を前面に押し出したりと、制作時期によって作風に大きな違いが見られます。
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ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ『貧しき漁夫』1881年オルセー美術館。
画家名:ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ。
時代区分:象徴主義。
生没年:1824年?1898年。
代表作:貧しき漁夫、希望、ほか。
作品集:ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの代表作・有名絵画。
象徴主義を代表する画家 ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌは、象徴主義(世紀末芸術)を代表するフランスの画家です。
穏やかな色彩や擬人像を用いた古典的な作風が特徴のジャヴァンヌの絵画は、
西洋美術のジャンルや伝統に捕らわれない新しい表現を追求し、
ピカソやポール・ゴーギャンら西洋美術の巨匠らに多大な影響を与えました。
象徴主義を代表する画家にはシャヴァンヌのほかに、
オディロン・ルドン、ギュスターヴ・モロー、アルノルト・ベックリンらがいます。
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ピエール・ボナール
ピエール・ボナール『小さな洗濯女』。
画家名:ピエール・ボナール。
時代区分:ナビ派。
生没年:1867年?1947年。
代表作:小さな洗濯女、小さな犬と浴女、田舎の食堂、白い猫、ほか。
作品集:ピエール・ボナールの生涯と作品解説。
ピエール・ボナールとは?
ピエール・ボナールは、19世紀後半~20世紀前半に活躍したナビ派のフランス人画家。
浮世絵や日本画の影響を強く受けたボナールは「日本かぶれのナビ」とも称されました。
愛妻が入浴する姿を何点も描いたことで知られており、ポスター制作のデザイナーや版画家としても多くの実績を残しています。
ピエール・ボナールの生涯
1867年、フランスのフォントネー=オー=ローズで誕生したピエールボナール。
父が陸軍省の局長であったボナールは、夏には別荘で過ごすなどフランスの典型的なブルジョワ家庭の次男として育ちました。
大学は法学部へ進学、夜間はアカデミー・ジュリアンという画塾で絵の勉強をします。
ボナールがナビ派に所属したのは、この画塾でポール・セリュジェやモーリス・ドニと出会ったことがきっかけです。
ボナールが制作したシャンパンのポスター・22歳で国立美術学校に入学したボナールは、
シャンパンのポスター公募展で優勝し注目を浴びます。
この頃のボナールは画家というより、ポスターや版画制作などを手がけるデザイナーとしての仕事が主でした。
39歳以降のボナールは画廊と契約を結び、安定した収入を得ながら絵画の制作を続けます。
ボナールの代名詞ともいえる浴室の裸婦画は、ボナールの妻マルトをモデルに描いたものです。
ボナールは26歳のときに出会ったマルトと長く事実婚を通しており、正式に結婚したのはボナール57歳のときでした。
マルトが亡くなったあともマルトの絵を描き続けたボナールは、マルトが亡くなった5年後に79歳で亡くなっています。
ボナールが属したナビ派とは?
ナビ派とは、パリを中心に活動していた学生たちが作った前衛派グループのこと。
「ナビ」とはヘブライ語の「預言者」のことで、ナビ派ではゴーギャンのことを指します。
ゴーギャンに同調し、ゴーギャンの色彩理論の影響を強く受けている美術様式です。
ポール・セリュジエのタリスマン(護符)・ナビ派の始まりは1888年。
ポン・タヴェン村でゴーギャンと出会ったポール・セリュジエが、ゴーギャンの助言を受けて制作した1枚の風景画がきっかけでした。
パリに戻ったセリュジエは、ボナールら友人の学生たちにその風景画を見せ、
作品にタリスマン(護符)という名前をつけナビ派の象徴とします。
ナビ派の作品の技法に共通性はありませんが、伝統的なフランス絵画と比較すると、輪郭線や色彩などが見たままよりも装飾され、
平面的でデザイン的な要素があるのが特徴です。
ナビ派の活動はキリスト教に根ざし、超自然的なものに対する情熱を持ったメンバーが多くいましたが、
ボナールはこれらには全く興味がなく、日常的な主題の作品を制作することに没頭していました。
ナビ派の芸術家には、ボナールのほか、ポール・セリュジエ、モーリス・ドニなどがいます。
ボナールらナビ派の活動や作品は、その後のフォーヴィズムやキュビズムにも影響を与えました。
ピエール・ボナールの特徴・作品鑑賞ポイント
日本かぶれのナビと呼ばれたボナール・ピエール・ボナール日本かぶれのナビ
日本の浮世絵や日本美術に強い影響を受けたピエール・ボナールは、
パーツを画面に配置するような平面的な構図や装飾性を持った作品を制作しました。
『庭園の女たち』の縦長4枚に分割して描かれた女性たちの着想ベースは日本の屏風絵です。
何気ない日常を優しく表現するのがボナール流・何に対してものんびりマイペースだったと言われるボナールは、
作品を制作するのも非常にスローペースで、ひとつの作品に何年もかけて色を塗り足すことがあったと言われています。
そんなのんびり屋のボナールは、フランスの風景や食卓など、何気ない当たり前の日常を主題とした作品を多数残しており、
それらの色彩はボナールの人柄を表すかのような優しい雰囲気に包まれているのが特徴です。
しばしば印象派と比較して語られ、またフォーヴィスムやキュビスムへと時代が移り変わっていくなかで、
批判的な評価も受けたボナールでしたが、ボナールはマイペースな自分流を貫き、妻マルトとの日常の一コマを描き続けました。
お風呂大好きボナールの妻マルト・ボナールが何年も描き続けた妻マルトの姿
浴室の裸婦を描く画家といえば、真っ先に浮かぶのはボナールとドガではないでしょうか。
ボナールの妻マルトは日に何度も入浴する習慣があり、ボナールは入浴する妻の姿を観察し、記憶に留めて絵画を制作しました。
8種類の色を塗り重ねるというボナールの手法により、マルトの身体は浴槽のお湯の中でゆらいでいるように見えます。
1900年以降のボナールの作品はどれも明るい色彩に変化し、妻マルトも明るい陽射しのなかで入浴する姿で描かれるようになります。
ボナールは、妻マルトが年老いても、自分の記憶のなかの若かりし姿でマルトを描き続けており、
キャンバスのなかのマルトはどの作品でも若いままです。
ボナールは妻マルトが亡くなったあとにもマルトの絵を描き続けました。
ボナールが描く犬猫の可愛らしさ
浴室や寝室の裸婦画のイメージが強いボナールですが、犬や猫など動物が登場する作品も制作しています。
どの動物もとても可愛らしい姿でキャンバスに登場しており、そのポワポワとした毛並みや表情などからは、
ボナールの動物に対する優しい目線や愛情が感じられます。
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ピエト・モンドリアン
ピエト・モンドリアン『赤・青・黄のコンポジション』1930年チューリッヒ美術館。
画家名:ピエト・モンドリアン。
時代区分:デ・ステイル、抽象芸術。
生没年:1872年?1944年。
代表作:赤・青・黄のコンポジション、ブギウギの勝利、ブロードウェイ・ブギウギ、ほか。
作品集:ピエト・モンドリアンの代表作・有名絵画。
幾何学的抽象画 デ・ステイルの画家 ピエト・モンドリアン
ピエト・モンドリアン(1872-1944)は、
デ・ステイルや抽象芸術を代表するオランダ出身の画家です。
抽象絵画の最初期の画家に位置付けるモンドリアンは、キュビスムから垂直線・水平線・
原色のみで構成された幾何学的抽象画へと表現を進めると、代表作コンポジションシリーズの作風を確立しました。
ニューヨークへと住まいを移してからは、『ブロードウェイ・ブギウギ』など、より軽やかな作風へと変化が見られます。
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ヒエロニムス・ボス
ヒエロニムス・ボス『快楽の園』1503年-1504年プラド美術館。
画家名:ヒエロニムス・ボス。
時代区分:北方ルネサンス。
生没年:1450年頃?1516年。
代表作:快楽の園、干草の車、七つの大罪と四終、ほか。
作品集:ヒエロニムス・ボスの生涯と作品解説。
ヒエロニムス・ボスとは? 画家プロフィール
ヒエロニムス・ボス(Hieronymus Bosch)は、北方ルネサンス・初期フランドル派を代表する画家です。
ヒエロニムス・ボスの本名はヒエロニムス・ファン・アーケンですが、
1504年の作品から作品への署名をニックネームのボスに変更しており、以降ヒエロニムス・ボスの名で親しまれています。
ヒエロニムス・ボスは宗教画や宗教色の濃い寓意画を描いたことで知られ、
その独特な世界観はブリューゲルなど後世の芸術家たちに多大な影響を与えました。
ヒエロニムス・ボスのの代表作は『快楽の園』『最後の審判』『干し草車』など。
現存するボスの作品は25点と考えられています。
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フアン・グリス
フアン・グリス『開いている窓の前の静物』1915年フィラデルフィア美術館。
画家名:フアン・グリス。
時代区分:キュビスム。
生没年:1887年?1927年。
代表作:開いている窓の前の静物、サンブラインド、ピカソの肖像、ほか。
作品集:フアン・グリスの代表作・有名絵画。
キュビスム第3の創始者 フアン・グリス
フアン・グリス(1887-1927)は、キュビスムを代表するスペインの画家です。
ピカソ、ブラックによって確立されたキュビスムにやや遅れて参加したフアン・グリスは「キュビスム第3の創始者」とも呼ばれます。
ギターやマンドリン、部屋にある静物をキュビスムによって新たに解釈したフアン・グリスの静物画は、
ピカソやブラックのモノクロームや褐色に寄ったキュビスム作品と異なり、カラフルな色を積極的に用いているのが特徴です。
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フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ『星月夜』1889年ニューヨーク近代美術館。
画家名:フィンセント・ファン・ゴッホ。
時代区分:後期印象派。
生没年:1853年?1890年。
代表作:ひまわり、自画像、夜のカフェテラス、星月夜ほか。
生涯他:ファン・ゴッホの生涯・作品の特徴・噂の真相を解説。
作品集:フィンセント・ファン・ゴッホの代表作・有名絵画。
後期印象派を代表する画家 フィンセント・ファン・ゴッホ
フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890年)は、
ポール・ゴーギャン、ポール・セザンヌと共に後期印象派の三大巨匠に数えられるオランダ出身の画家です。
ゴッホは10年という短い画家人生のなかで、油彩、水彩、デッサン合わせて2,000点以上の絵画作品を制作しました。
ゴッホの作品は制作時期によって作風が異なり、オランダ・ベルギー時代は暗く重厚感のある作品、
パリ・アルル時代には明るい色彩の作品や浮世絵の影響を感じさせる作品、
病に苦しめられたサン=レミ時代以降は大きなうねりを帯びた筆触の作品が多いのが特徴です。
ゴッホと弟テオとの文通、ゴーギャンとの同居・耳切り事件など、ゴッホの人生もまた多くの人々の関心を集めています。
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フラ・アンジェリコ
フラ・アンジェリコ『受胎告知』1437-1446年頃サン・マルコ美術館。
画家名:フラ・アンジェリコ。
時代区分:初期ルネサンス。
生没年:1390年頃?1455年。
代表作:受胎告知、聖母戴冠、最後の審判、ほか。
画家について:フラ・アンジェリコの生涯と作品解説。
フラ・アンジェリコとは?
フラ・アンジェリコ(Fra’ Angelico)は初期ルネサンスを代表するイタリア人の画家です。
ドメニコ修道会の修道士であったフラ・アンジェリコは、
キリストの磔刑図を描きながら涙を流すなど敬虔なキリスト教信者であったといわれ、
修道士として装飾写本やフレスコ画などを手がけ、生涯宗教画を描き続けました。
1982年には教皇ヨハネ・パウロ2世から福者として認定されており、
「福者アンジェリコ」を指すベアート・アンジェリコ(Beato Angelico)とも呼ばれます。
フラ・アンジェリコの特徴・作品鑑賞ポイント
フラ・アンジェリコ『聖母戴冠』
イタリア人画家であり建築家であったジョルジョ・ヴァザーリが250人余りの芸術家について綴った著書、
『画家・彫刻家・建築家列伝』のなかで、
フラ・アンジェリコは「まれに見る完璧な才能の持ち主」と紹介しています。
初期ルネサンスの画家がギリシャ・ローマ期の美術を手本とし写実的な表現を模索するなか、
フラ・アンジェリコは信仰心を注ぎ込んだかのような静かで清らかで優美な独自の世界観を築き上げます。
フラ・アンジェリコは、天使が聖母マリアにイエスを宿すことを告げる、
『受胎告知』や聖母マリアが天に上げられ載冠を受ける『聖母戴冠』などキリスト教美術の主題となるシーンを描きました。
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フランシスコ・デ・ゴヤ
フランシスコ・デ・ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』1814年プラド美術館。
画家名:フランシスコ・デ・ゴヤ。
時代区分:ロマン主義。
生没年:1746年?1828年。
代表作:マドリード1808年5月3日、我が子を食らうサトゥルヌス、ほか。
作品集:フランシスコ・デ・ゴヤの代表作・有名絵画。
スペイン・ロマン主義の有名画家 フランシスコ・デ・ゴヤ
フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)はロマン主義を代表するスペインの画家です。
30代までのゴヤの絵画はロココの影響を感じさせるものが多く、40代で宮廷画家になると多くの肖像画を描きました。
聴覚を失った後は悪魔や魔女、凄惨な戦争などダークな主題を扱った絵画、
人間の凶暴性を鋭く見つめた黒い絵シリーズなどの代表作を残しました。
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フランソワ・ブーシェ
フランソワ・ブーシェ『ポンパドゥール夫人の肖像』1756年アルテ・ピナコテーク。
画家名:フランソワ・ブーシェ。
時代区分:ロココ。
生没年:1703年?1770年。
代表作:ポンパドゥール夫人の肖像、水浴のディアナ、ほか。
作品集:フランソワ・ブーシェの代表作・有名絵画。
甘美でロマンティックなロココの画家フランソワ・ブーシェ
フランソワ・ブーシェ(1703-1770)は、ロココ美術を代表するフランスの画家です。
装飾家としても活躍したブーシェは、ヴァトーやフラゴナールと比較して最もロココらしい、軽やかで甘美な作品、
奔放で官能性を感じる作品を制作しました。
フランソワ・ブーシェの弟子に同じくロココを代表する画家ジャン・オノレ・フラゴナールがいます。
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フレデリック・レイトン
フレデリック・レイトン『フレイミング・ジューン』1895年ポンセ美術館。
画家名:フレデリック・レイトン。
時代区分:新古典主義、アカデミック美術・アカデミスム。
生没年:1830年-1896。
代表作:フレイミング・ジューン、ソリテュード、プシュケの水浴、ほか。
作品集:フレデリック・レイトンの代表作・有名絵画。
イギリス・アカデミック美術の巨匠 フレデリック・レイトン
フレデリック・レイトン(1830-1896)は、新古典主義やアカデミック美術・アカデミスムを代表するイギリスの画家です。
ヨーロッパで絵画を学んだレイトンは、古典主義らしい正確さに洗練を加えた肖像画や宗教画・神話画を描き、
イギリスの国立美術学校ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツの会長を18年間務めました。
外交的手腕にも優れていたレイトンは、ヴィクトリア女王に絵画を売るほどの成功を収め、
英国人画家として初めて貴族の称号を授与されています。
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ベルト・モリゾ
ベルト・モリゾ『ゆりかご』1872年オルセー美術館。
画家名:ベルト・モリゾ。
時代区分:印象派。
生没年:1841年?1895年。
代表作:ゆりかご、舞踏会で、ほか。
作品集:ベルト・モリゾの代表作・有名絵画。
印象派を代表する女流画家 ベルト・モリゾ
ベルト・モリゾ(1841-1895)は、印象派を代表するフランスの女流画家です。
女性の画家が少ない時代において、ベルト・モリゾは印象派らしい親子や女性の肖像画、風景画などを描き活躍しました。
ベルト・モリゾはモデルとして画家エドゥアール・マネの絵画に度々登場しているほか、
私生活ではモネの実弟と結婚したことでも知られます。
印象派の女流画家としては、ベルト・モリゾのほかにメアリー・カサットがいます。
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ポール・ゴーギャン
ポール・ゴーギャン『我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか』1897-1898年ボストン美術館。
画家名:ポール・ゴーギャン。
時代区分:後期印象派。
生没年:1848年?1903年。
代表作:我々はどこから来たのか、我々は何者なのか、我々はどこへ行くのか。
作品集:ポール・ゴーギャンの代表作・有名絵画。
南国に楽園を求めた後期印象派の画家 ポール・ゴーギャン
ポール・ゴーギャン(1848-1903)は、
フィンセント・ファン・ゴッホやポール・セザンヌと共に後期印象派(ポスト印象派)の三大巨匠に挙げられるフランスの画家です。
ゴッホとは短期間ながらフランス・アルルで共同生活を送った時期もあります。
暗く太い輪郭線を用いたクロワゾニスムを得意としたゴーギャンは、西洋文化の影響を受けていない楽園を求め、
自然の豊かな南国タヒチに渡り制作活動を続けました。
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ポール・シニャック
ポール・シニャック『フェリックス・フェネオンの肖像』1890年ニューヨーク近代美術館。
画家名:ポール・シニャック。
時代区分:新印象派。
生没年:1863年?1935年。
代表作:フェリックス・フェネオンの肖像、朝食、日曜日、ほか。
作品集:ポール・シニャックの代表作・有名絵画。
装飾的な点描が得意な新印象派の画家 ポール・シニャック
ポール・シニャック(1863-1935)は、新印象派(新印象主義)を代表するフランスの画家です。
クロード・モネの影響のもと絵画をはじめたポール・シニャックは、ジョルジュ・スーラと出会い、
スーラの確立した筆触分割による点描画をより理論的で装飾性を高めた絵画へと発展させていきました。
ポール・シニャックは画家としての活躍はもちろん、
「ドラクロワから新印象主義まで」を出版するなど早世だったジョルジュ・スーラに代わり新印象派を広めたことでも知られます。
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ポール・セザンヌ
ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジ』1899年オルセー美術館。
画家名:ポール・セザンヌ。
時代区分:後期印象派。
生没年:1839年?1906年。
代表作:リンゴとオレンジ、サント・ヴィクトワール山、カード遊びをする人々、ほか。
作品集:ポール・セザンヌの代表作・有名絵画。
現代絵画の父と呼ばれる後期印象派の巨匠 ポール・セザンヌ
後期印象派(ポスト印象派)の三大巨匠として知られるポール・セザンヌ(1839-1906)は、
ひとつの物を様々な視点から捉えて描く方法で一躍有名になりました。
対象物を様々な視点から捉え1枚のキャンバスにまとめると、そこにはゆがみが生じます。
そのゆがみをセザンヌは絶妙なバランス感覚で捉え、ゆがみがあるからこその構図に仕上げました。
セザンヌの静物画や人物画にはこうした技が巧みに盛り込まれており、
風景画では自分が住んでいた屋敷や今回の作品の題材にもなっているサント=ヴィクトワール山を何度も描いています。
ピカソやブラックら後世の画家に影響を与え『現代絵画の父』と呼ばれるまでの成功の秘訣は、
こうしたポール・セザンヌの強いこだわりによるものといえるでしょう。
後期印象派の画家には、セザンヌのほか、フィンセント・ファン・ゴッホやポール・ゴーギャンらがいます。
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